【偕拓堂アート-掛軸の製造卸販売・メーカー】日本の家庭行事と掛軸(掛け軸)に込められた思い

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掛軸の歴史

掛軸の由来 【 掛軸の伝来 】

飛鳥時代は中国から仏教が伝来した時期であり、掛軸は仏教を広めるための道具とし初めて日本に流入しました。
仏画が描かれていたため、流入当時は鑑賞用ではなく、「掛けて拝する」ものとして使用されました。
平安時代になると、掛軸は貴族階級に広がっていきました。

掛軸の形成 【 床の間文化の誕生 】

鎌倉時代になると、頂相(ちんぞう)(宗派の祖師の肖像画)や詩画軸(画の上に漢詩を伴う掛物)の発達が促されました。更に時期を同じくして宋朝の表具形式が日本に伝来し、後に日本掛軸の基本の形が確立されるきっかけになりました。
鎌倉時代後期~室町時代にかけて書斎を主室とする「書院造り」が主流となり、「押板」という奥行が浅く間口が広い厚い板を敷いた部分がありました。後には茶の湯が流行し、押板が書画を鑑賞するスペースとして奥行が深くなり、やがて床の間が造られるようになります。そして床の間に掛ける「掛軸」は、礼拝の対象ではなく絵画芸術として大きくクローズアップされるようになりました。
床の間という空間は他の国に類をみない、日本独自のものです。

掛軸の発展 【 掛軸の発展 】

室町時代になりますと、中国画人の書画を上中下の三つに分けて分類されるようになり、やがて「大和表装」と呼ばれる「真・行・草」(しん・ぎょう・そう)という格式を表す表装形態が確立されました。
更に、安土桃山時代には武人の間に茶の湯が盛んに行われるようになりました。茶の大家である千利休の影響もあり、茶席における床の間には掛軸を掛けるという慣習が生まれ、季節・朝夕晩の時の移り変わりや来客者を考慮して掛軸を掛け替えるようになります。

掛軸の普及 【 掛軸の普及 】

江戸中期には職業画家でない文人 (知識人) の制作する「文人画」という絵画が流行り、大和表装と文人表装の技術が更に発展していき、掛軸が貴族から町民まで広く楽しまれるようになります。

(大和表装と文人表装について: http://www.gifujikuso.jp/01hyougu/04keitai/index.htm

江戸や京都のお抱え絵師たちにより数多くの作品が生み出され、芸術的価値が高まっていきます。また、江戸時代は大きな戦がほとんど起きなかったため、様々な文化が爛熟期(らんじゅくき)を迎えました。それ以前の床の間は、館や城の広間に建てられ、一部の権力者しか楽しめませんでしたが、徐々に庶民にも広く普及し始めました。

掛軸の普及 【 掛軸の今 】

明治維新以後、より多くの絵師たちが技を競い合います。
第二次世界大戦後は、官公庁主催であった「文展」(現:日展)と「日本美術院」などの台頭により日本画の隆盛期を迎えます。
今では床の間は日本住宅に不可欠な一部となってきました。
今、私たちが掛軸を楽しむことが出来るのは、先人たちの知恵がなし得た業を今に受け継いできたからです。
現在は非常に質の高い作品を身近に楽しめるだけの環境が整っています。
日本が誇れる伝統と文化のひとつを担う 「掛軸」 を改めて見直してはいかがでしょうか?
時代の流れによってさまざまに変化してきた床の間文化。偕拓堂アートはこれからも、時代の生活様式に合わせた新しい文化を作り続けていきます!

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